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「ここに訪問者はいません。」

【お題】 憧れのあの人

今日ははてなさんから標記のようなタイトルをご提示いただいたので(ので?)、FPから単なる引用です。

A Turning Point in the Fight for Hong Kong

The real battle, still very much ongoing, is for Hong Kong's people's hearts and minds.

本当の闘いは、香港人民の心情と理性とを戦場に、今なおまさに進行中である。

After watching protesters facing down the riot police, C.Y. apparently doing Beijing's bidding, and students being arrested, even moderate Hong Kongers are likely to become even more distrustful of the Hong Kong government's willingness to look out for their interests.

抗議団が機動隊の鎮圧に行く手を阻まれ、梁振英長官が北京の言いなりであることが明白になり、そして学生達が逮捕された今、香港政府が自らの利益に注意を払ってくれるかどうかについては、穏健な香港人すらも、ますます不信感を募らせつつあるようだ。

A sign making the rounds on social media -- "I cannot keep calm because Hong Kong is dying" -- shows an increasing unease and anger among the population.

ソーシャルメディア界隈を行き交うグラフィックサイン ― "I CAN'T KEEP CALM BECAUSE HONG KONG IS DYING" ― は、社会にいや増す不安と怒りを示している。


香港人は、こういうところですげー洒落てる。

I CAN'T KEEP CALM BECAUSE HONG KONG IS DYING *1
http://bit.ly/1rmJHx9

*1:元ネタ KEEP CALM AND CARRY ON http://ja.wikipedia.org/wiki/Keep_Calm_and_Carry_On

【お題】 暑いから何か飲む?

 タイトルは、いつもどおりはてなさんのお薦めで。


 さて、朝日新聞デジタル 2012年1月19日9時21分の記事。←いくらなんでも古すぎる

朝日新聞デジタル川久保玲さんロングインタビュー ファッションで前に進む - ビューティー - ファッション&スタイル
http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201201180360.html

 「そんな風潮に危惧を感じています」という言葉、文章から、「『なんとなく』の風潮に危惧」という小見出しを作っちゃいかんだろう新聞記者として。「を」!「を」!

 …という些細なことはさておき、ギャルソンを立ち上げて45年、川久保玲氏はかっこいい。「まだかっこいい」ではなく、ただラディカルでかっこいい。

 「ファッションを民主化する」というH&Mに対して「でも、ファッションのすべてが民主化される必要はありません」と言い放ち、あまつさえそのH&Mとのコラボレーションの中で個を追及して見せる氏に対して、H&Mは、大量生産なるものをそれこそウォーホルのようにメタな視点から提示しなおす場へと(歓んで)引きずり出された。

 話がそれるけれども、col-labor-ation の接頭辞 con- は、together という意味と同時に against の意味を持っている( cf. "Pros & Cons" )。

 根源を突き詰めるということがラディカルという言葉の指す過激さだとするなら、H&Mとのコラボレーションで見せた氏の姿勢を、ラディカルと呼ぶのだろう。


 などと書いていながら、朝日新聞デジタルに登録していないので全文が読めない(答え:盗泉の水でも飲めるなら飲みたい)。

【お題】 桜ももう散ってしまいましたね。

 昨4月9日に行われて、たいへん話題になっている、件の会見について、いくつかの記事を読んでいて、辿りついた自分としての心証。
 いえね、既にTwitterに書いたのだけれど、当然140文字制限だったり、フォロワーへのレスだったりで、断片的になってしまったので、大幅な加筆とともにここにまとめようかと。



 騒ぎの当初こそ、その発見の内容と、その後の細胞作製の再現性に関する事実関係、特許問題などに興味があったものの、もはや昨日の会見など見てもいないし、すっかり興味をなくしていた。

 が、ここにきて、会見の場に立った彼女の精神的問題というか、彼女は本当に「信じている」んじゃないかという点に、にわかに関心が高まっている。


1.
 4月に入ると彼女は「S細胞は再現できると信じている」という声明を出し、その『信仰告白』によって科学者としての資質をさらに疑わしめることになった。彼女のプロジェクトが提出した論文は、仮説に関するものではなく、事実を謳ったものなのだから、この「信じている」が、仮に刑事裁判に譬えるところの「秘密の暴露」にあたるような失言ではなく、単なる言葉の綾であったとしても、彼女が自然科学という厳しい審判の場に相応しい言語を身につけていないということは明らかだった。

 ただ、一方で、彼女が出身大学の研究室でも、現在の、いまやその場を追われようとしている職場でも、将来を嘱望されてきたことは疑うべくもない。研究者として不可欠な資質に欠けている彼女がそれでも期待を集め、あまつさえ、所属団体の毀誉褒貶を大きく左右するような研究プロジェクトまで任されて論文発表に至った。十分に雄弁な事実であろう。

 これについて、彼女が『女』を使っているとかいう雑な印象批評を見かけたが、それこそ何十人、何百人と関わってきたであろう彼女の研究者としての人生に対してあまりに想像力が欠けている。発言者はそれが分子生物学会全体や自然科学者なるものに向けての侮辱でもあることを理解しているだろうか。

 それでも彼女が「かわいいから許されてきた」とするなら、それは、女性としてではなく、部下として、弟子としてかわいいからというほうが何倍も妥当だ。そしてそれゆえに、彼女は暴走と呼んでもいいような反撃を試みざるを得なかったように思われる。


2.
 精神分析でいう防衛機制に、同一化(identification)という概念がある。自分の状況を、他者の有する力や権威に近しいもの、ないしその一部として捉え、他者の状況などをそのまま自らにとっての現実と見なしてしまうことによって精神的な負荷を回避する、というような自らへの心理的操作のことだ。

 例えば、スポーツ選手やチームを応援することで、それらとの一体感を覚えるような類いの心理状態は、操作というか、むしろ普通のことのように思う。例えば「ガンダムだ、俺がガンダムだ」みたいな(違う、のかな)。

 とにもかくにも、師の影を踏まず、ただその示す道を歩んできた多くの優等生にとって、個人としての研究実績が問われることは少なからずストレスである。彼女がハーバードないし理研という組織にアイデンティティを求めても別段不思議ではない。

 そして、ハーバードや理研は、図らずもその同一化に手を貸していた。良心的で親身な指導と、経験や能力に比べれば過分であるかもしれないプロジェクトリーダーという立場を与えることによって。


3.
 問題の発覚後、野依先生らによって捏造、盗用などに関する会見が行われた際、ぼくはそれこそ印象、憶測として、利益追求に過剰適合した組織が惹き起こした問題を彼女個人の資質に帰そうとする釈明であるように感じた。ネットを検索する限り、同様の印象を持ったひとは少なくなかったらしい。そこから後、そうした印象を支持する具体的な材料は何も出てこなかったのだけれども、依然としてその流れを汲む論調は存在している。

 そして、厄介なことに、画像の捏造が認定された際の彼女の激しい不服の表明だけがその憶測を後押しした。すべての過誤は、性急に成果を求めるなかで敢えて見逃された不備であり、つまるところ組織の問題ではないかという彼女の内心が、そこからは窺えた。

 ここで、彼女がまさに心情を吐露しているとしたら。嘘をついていないとしたら。彼女の中でだけ、彼女と理研とがまったき一体の存在であり、彼女の成果や問題がそのまま同時に理研と上長と協力者の成果であり問題である場合には、それが矛盾なく成立する。

 ゆえにこそ、理研が彼女の研究を不正と認定することは、彼女にとって一体化を損ね自らを存在の危機に晒すのだ。「驚きと憤りの気持ち」は、自らのアイデンティティを分断されんとすることに対する偽らざる気持ちだった。


4.
 彼女の防衛機制はここに至って次の段階へ進む。

 ひとつは、一方で理研を激しく攻撃し、一方で引き続き理研で研究を続けたいという矛盾した発言に表れている。自らのアイデンティティと不可分の「理研」なる権威的存在を維持するため、彼女は自我を分断される代わりに「善い理研」と「悪い理研」とを分けたのである。この操作は分裂(splitting)と呼ばれる。

 もうひとつは、他者(他人や社会)が有する観念や価値観を内面化するにとどまらず、それらを自分にとっての現実に摂りこんでしまう操作、すなわち摂取(introjection)だ。

 9日の会見において発言したように、彼女はS細胞の再現が200回以上成功したと「信じ」、今後の研究のために実験の詳細な手順やデータは公開できないと「信じている」。理研も、共同研究者の誰も、いまや手順が公開できない、すべきでないなどとはまったく考えていないにもかかわらず。

 だが一方で一連の発言は、批判者の投げかける疑いや、逆に擁護の論調が寄せる期待にはそのままきれいに応えている。言うならば、他者の疑いが彼女の現実を書き換え、他者の期待が現実を書き換えているのだ。このとき既に彼女の現実は、自己と他者との境界を失いつつあるようにしか見えない。



 彼女のまわりの方々、家族、友人は、あるいは研究者は、また弁護士は、その研究内容について彼女を擁護したり批判したりする段階をもう過ぎてしまったことを理解し、別の認識をもって(より適切には、診療医を交えて)彼女の言動を見るべき、支えるべきではないのかなあ。

【お題】 早くも「梅雨入り」です

「児童ポルノ禁止法改定の真の目的は何か? 単純所持禁止、マンガ・アニメ「調査研究」への懸念」

 上のリンクを読んで。 児ポ法に反対するご意見はよく目にするのだけれども、部外者に説得力を持つかどうかでいうとちょっと疑問の残る議論が少なくないので、少し引いた目線でまとめられればと思って書いてみる。


 正式名称を「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」という法律が、まず作品の単純所持を禁じ、まるで附則のごとく末尾に

 (5)被害児童の保護のための措置を講ずる主体及び責任の明確化

と掲げているのは何故か。


 児童の性的搾取、性的虐待を防ぐことが第一義で、そのために製作者販売者を撲滅することが目的となるのなら、所持を禁じることは意味がない。 児童買春に至っては関係すらない。 出版物やテレビ、映画等の製作者が不作為からそのような表現を用いてしまう場合を除けば、児童ポルノは意図的かつ継続的に製作されるのであり、その製作や流通は法規制のない国に移転することが合理的だ。 国外のサーバから購入作品をダウンロードして、鑑賞の都度キャッシュからデータを消去するサービスがすぐに始まるだろう。 そのために日本人児童が海外へ拉致・誘拐される事態まで容易に想像できる。 罪状が変わるだけで、性的搾取、性的虐待自体はながらえることができてしまう。


 単純所持禁止は、一方で、上に見たのと同様に、芸術家など表現者にとって日本国内における表現の禁止になる。 「篠山紀信さんにもネガごと捨ててもらう」という議員発言に端的に表れている。 會田誠にも作品の素材が入ったHDDごと捨ててもらうのだろう。 そうなれば、大家だろうが若手だろうが、製作拠点すら国内には置けないわけで、日本人作家による『合法的な作品』も国内の美術館や美術愛好家にとっては縁遠い存在になる。 最初から国内にないのだから、作品価値が認められた頃には既にオリジナルが日本になかったというケースの多い浮世絵の比ではない。


 単純所持禁止が『被害児童』を持たない他分野にまで拡張されるなら、それら他分野においても製作者、製作拠点と市場は国外に移転する。 およそ図像を用いた創作を志すのであれば、日本の美大等を志望するのは不真面目ということになる。 文学もそうだが、最初から『合法的な作品の創作』を志してアートの道を選ぶこと自体がアーティスティックではない。 製作者も購入者もいないので作品流通も国内ではペイしないのは自明のことだ。


 単純所持禁止は、もう一点、法の不遡及の原則に反して施行遥か以前の(篠山紀信栗山千明を撮った「神話少女」のような、あるいは物故した作家の)作品の所持にも適用され、また送りつけられたもの、そこに紛れ込んだものをも含むので、警察による捜査権の濫用を制限したとしても、恣意的に別件逮捕に利用することができるという法的問題を孕んでいる。


 同法が『本来の目的』からすればおそるべきザル法であり、『目的外』に機能することが強く懸念される理由は、そういうところである。

はてなブログ始めました。

エネルギー・環境に関するパブコメに投稿してみた。

 内閣府共通意見等登録システムから「『エネルギー・環境に関する選択肢』に対する御意見の募集(パブリックコメント)」に投稿したので、せっかくだから開設していなかった"はてなブログ"に試しに投稿してみようかと血迷ってみました。

 パブコメは8月12日(日)が締切だそうなので、参考までにとりあえず何を書けばいいか、書かなくてはならないかを下記します。

 意見の内容そのものについては当然のことながら賛否があると思いますし、そもそもひとの意見など見たくもないという方もおいでかと思いますので、まずは書式の点だけ掻い摘んで見られるようにした感じです。

 入力項目は、すべて必須で

  • 個人/法人の別
  • 氏名
  • 住所
  • 職業 ※選択式
  • 性別 ※選択式
  • 年齢 ※10歳きざみの選択式
  • 電話番号(半角数字)
  • メールアドレス
  • ご意見の概要(100字以内) ※全角で100字分ということのようです
  • 御意見及びその理由 ※フォーム下に記載がありますが、こちらも2500字以内という制限があります

とまあ、簡単なものです。

 実際に投稿してみた感想としては、100字で概要を書くのはなかなか大変だなというぐらいでしょうか。「どうしようかな、面倒かな」とお思いの方の一助になれば幸いです。




 …これだけで終わるのも味気ないので、ご興味があるという方に(物好きですね)、自分の書いた恥ずかしいものをお見せします。
我ながら存分にどっちつかずで、中庸な意見ではないかと(笑)

ご意見の概要(100字以内)

2030年云々より、活断層上への設置・老朽化等の危険な原発の廃炉と利権の制限、及び既存発電の高効率・低公害化とが急務であり、加えて蓄電・送電能力の向上、次いで新エネルギーによる発電の積極実用化が必要。

御意見及びその理由

重要なのは、夏の日中に発生するピーク需要に対する新たな供給策の充実。

現在主流である揚水発電に加えて、蓄熱や廃熱利用によって夜間や冬季に捨てられる電力を抑制することが第一。
同時にスマートグリッドの導入と電力自由化を進める。

ここに至って、導入時には小規模であろう新エネルギーも生かせる。つまり上記を導入する間に、再生可能エネルギーによる発電の実用化が必須であり、他国で実用化されている発電も含めた研究、導入を速やかに行う必要がある。

地熱発電プラントは、日本企業が国外で多数導入実績を持っており、また日本が火山国であることを考えると、国立公園、国定公園などの保護を限定的に緩和してでも迅速に導入、普及することが望ましい。先行企業、自治体に対する一定の利権・優先権確立も積極的に検討されたい。

太陽光発電は昼間電力に対応でき、素子の研究は進んでいるが、国外企業に導入実績で先行されている点は政策的な調整が必要。風力発電には、発電効率の向上とともに、前述のとおり充電または蓄エネルギー手段の導入が先決。いずれも優れた研究例に対する実用化試験に優先的に投資する必要がある。一方潮力については、干満差の利用よりも日本領海を流れる海流のエネルギー活用を先に検討した方が現実的ではないかと考える。基本方針の策定が望まれる。

また、それ以前に、現在新造が凍結されている火力発電所にも高効率・低公害の新技術が開発、実用化可能なレベルに達したものがあり、既存プラントに対するさらなる設備の充実によって、過渡的ではあるが、よりフレキシブルな対応の可能性は広がるものと考える。

以上がピーク電力をカバーすることにより、ベースとなる発電能力に必要な総発電量を段階的に下げる事が可能。

 以上、"はてなブログ"投稿体験記でしたー(違

"BAUHAUS experience, dessau" 東京藝術大学、その他

 東京藝大で開催中の「バウハウス・デッサウ展」に行ってきた。
 というか、お招きをいただいた。同展が広報的な試みとして「ブロガー鑑賞会」なるものを開いてくださったので、それに応募して、まんまと乗っかった次第である。

 会場となる大学美術館は、藝大の門をくぐったすぐ右側にある。胸にシールを貼り、通常と少し違う経路から中に入って、地下にある最初の展示フロアに降りた。

 第一印象として、やはり歴史的文脈を踏まえた展示構成。そして、これは非常に珍しいことだそうだが、現地デッサウの所蔵品を多用することにより、バウハウスが教育機関であることが強く表れた展示になっている。

 彼等の運動にとって、芸術作品とは、「鑑賞者の感覚に影響を与えるべく設計された環境」を指しているように思われた。バウハウスにおいて、日常生活に関わるもの達が芸術の明確な対象とされ、その目指すべき到達点として建築が挙げられたことがそれを裏づけている。現代であれば、それはさらに“都市”なり“地表”といったものまでを対象にしていたかもしれない(荒川修作は、その意味でバウハウス的だとも感じた)。

 ひとつ、とても重要に感じられたのは、彼等が当時の工芸、手工業の技術的達成をベースに置くとしながら、従来の装飾的工芸の文脈、つまり歴史的に培われた文様や細工をそこから排除したことだ。彼等の作品は、素材と、形態と、色彩と、その組み合わせのバランス(コンポジション)から構成される。職人技に依存する工程を取り除くことで、量産の容易で安価な作品=製品の製作を可能にしたことはもちろんだが、ここには芸術的意図だけでは量れない問題がある。

 バウハウスが興った20世紀初頭のヨーロッパには、アール・ヌーボーなど新たな芸術運動でありながら、伝統的様式の美を重んずるものもなお盛んであった。それだけではない。美を構造として捉え、構造と美の構成要素とを合致させることを目指した表現として、バウハウス運動とアール・ヌーボーとは共通の源泉を持っている。

 にもかかわらず、なのである。

 思うに、ここには二重のユニバーサルな思想がある。

 ひとつには、前述した作品の買い手の広範さ。価格もさることながら、伝統的文様や細工は各国文化に独特なものであり、彼等の考える「万人」のためのものとは認められなかった。だから、あくまでも素材と、形態と、色彩とを用い、受け手による文脈的理解に代わって「鑑賞者の感覚に影響を与える」ものの製作を目指したのである。

 もうひとつは、製作者の問題であった。工芸ならびに芸術にあっては、本人に固有な職人的天才(と、恣意的に結ばれた徒弟関係)のみによって作品の価値が生み出され決定されること。彼等にとっておそらくそれこそが看過できない問題だった。誰でもが受けられる教育による技能的修練の結果としての芸術を、バウハウスは謳った。

 これはつまり、マルクスの敷衍である。価値の源泉を何らかの“差異”――ここでは特権的な才能やギルドの統制――に求める重商主義的な考え方に与する技能としての工芸あるいは芸術を解体し、ユニバーサルに獲得可能な技能に基づく労働の所産として、それらを生み直す活動であった。バウハウスがロシア構成主義の影響を受けたことは夙に知られているが、現在「モダンデザイン」と言われるものがここから生まれたことを考えると非常に興味深い。

 ということをつらつらと考えながら作品を見て回った。当日は特別に撮影可だったのだが、上のような考えに囚われると、それこそが特権的に思われ、意図に反するような気がしたので、最後まで躊躇していた。写真は、入口でもらったシール。かわいい。

 いろいろと考えることの多いバウハウス・デッサウ展。この日記には珍しく、まだやっています。

バウハウス・デッサウ展
【会 期】2008年4月26日(土)−7月21日(月)
【会 場】東京藝術大学大学美術館
【主 催】東京藝術大学産経新聞社
【共 催】バウハウス・デッサウ財団

(実は「ブロガー鑑賞会」には特権と同時に当然ながら義務が設けられており、つまり締切がありまして。考え込み過ぎたのか時間切れになってしまったので、あとで加筆することにして、取り敢えずアップします…悪しからず。)