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Bitches Brew / Tacoma Narrows

Bitches Brew

Bitches Brew

 ミニマルな様式で知られるローザスが初めてダンサーの即興を作品に採り入れた作品、と一般に言われた本作では、果たして本来の意味における即興を観ることなど一秒たりともなかった。アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが注意深く行ったのは、複数の単純な運動の複合による現実世界の複雑な運動現象の再現、というべきものである。これまでフィボナッチ数列やポリリズム的な周期性などの数学的タームをダンスに導入することで新たな群舞の提示に取り組んできた彼女にとって、複雑系、あるいはカオスはごく必然的な「次の一手」であって、例外的な試みなどではなかった筈なのだ。

 まる1年も経ってどうしてそんなことを書くのか。そもそもなぜタコマ橋崩壊事故の記録映像が使われ、あまつさえタイトルにまで使われたかに言及するネットの感想文が当時ひとつたりとも見当たらなかったことが、大いにぼくを当惑させたから、ということになる。実は専門誌のレビューやパブリシティに異口同音に書かれていて、穏当過ぎる理解だったのかもしれないけれど。
 1940年に建造されたタコマ橋がわずか8ヶ月で崩落したこの事故は、想定されたいくつかの影響(通行、横風など)に起因して橋自体に自励的な振動が発生し、さらにそれらが干渉しあうことで、それぞれの振動エネルギーを足して得られる総和を超え、橋の耐久限界をも超えるねじれが発生したことが原因であり、のちにカオス研究が創始される要因ともなった。ここで重要なのは、発端となった個々の影響自体は予め想定されていたという点である筈だ。そうでなければ研究チームによって橋の崩落が映像で記録されることもなかったのだから。

 つまりアンヌ・テレサにとっては、ダンサー個々の動きを想定の範囲内に収めることが重要であり、にも拘らずこれも想定されたダンサー間の呼応のルールによって、あたかもクラブのフロアに見られるような複雑で突発的な人の離合集散がシミュレートされうるということが本来の眼目なのである。
 この公演をそのように見る観客が少ないこと、それこそが彼女の試みの成功を示しているのかもしれないが、こうまで完璧だと気の毒ですらある。

 仮に、日本の観客もそのような試みに気づいており、しかしそのような実験の域を越えて生々しく表現されたフロアの情景にこそ感銘を受けたのだとしよう。たしかに、いつも幾何学的とも言える整然とした群舞を得意とするローザスのダンサー達がルーズな空間に舞い、視線を合わせて動きをシンクロさせる(つまり一見普通のアンサンブル)姿は、それだけで新鮮ではあった。
 しかし、物語の鑑賞をダンスに期待してしまう向きには、ローザスはそもそもつかみ所のないカンパニーだった筈だ。今回アンヌ・テレサが本当に変節を経たというのであれば、今後さらに大鉈を振るわねばならないことは明らかで、これまでの顧客を切り捨てる覚悟を必要とするだろう。むしろそのような誤解を与えるべく膨大な試行錯誤を繰り返して辿り着いたであろうダンサー各々の振り付け―単振動と相互影響のルール―と透徹した客観的視線こそが鑑賞されるべきところだった。

 繰り返しになるが、アンヌ・テレサは現実世界の複雑な現象が見たとおりではないことを、あくまで自分のスタイルに則って示したのだとぼくは思うし、それによって「つい物語を読み取ってしまう」人間の認識の方法を問うたのだと思っている。

『地上最大のロボット』手塚治虫

鉄腕アトム(13) (手塚治虫漫画全集 (233))

鉄腕アトム(13) (手塚治虫漫画全集 (233))


 『PLUTO』が世に出て、原案となった『地上最大のロボット』も単行本附録になるなど再び耳目を集めている。 ただ、その読まれ方は、「この話と真正面から取り組んで浦沢はここまでの肉付けに成功した」というもので、浦沢抜きに読むことが難しくなっていることは否めない。 浦沢が物語るのはあくまでも浦沢自身の物語であって、そこには浦沢の土俵があるだけなのだ。 だからいま、純粋にこの手塚の作品を読み直して感じることを書いておきたい。

 鉄腕アトムの多くのエピソードの中でも『地上最大のロボット』は、読者から当然のように「心」を持つと信じられてきたアトムでなく、善悪を知らない高性能ロボットがいかにそれを身につけ「人」として成長し、「人」として死にうるかを描いている。 
 つまり、ロボット三原則のように単純な規則からも「心」は生まれうる、「心」とはそのようなものであると。 

 まず、高性能ロボットがロボット三原則を運用する時に、併せて人間社会の善悪判断を学習していくというシステム設計は効率側面から至極当然であること。 そして、人間社会の善悪判断を学習をするためには周囲からの毀誉褒貶に敏感に反応する判断装置が必要であること。 この作品ではプルートウもアトムも繰り返し毀誉褒貶に晒され、それぞれに大きなショックを受けている。 ウランからワッペンをもらうプルートウ、人間から「化けもの」と陰口を囁かれるアトム、ひとつひとつの場面が読む人間の「心」を鋭く突き刺し、その瞬間自分の内部で起こったと同じ現象がロボットの回路にも発生していることが痛いほど解る。 

 この主題は息が長く、石森章太郎人造人間キカイダー』によって再び奏でられ、少女マンガの清水玲子『メタルと花嫁』、近年では神山健司『攻殻機動隊stand alone complex』等でも変奏された。 恐らくは工業化、電子化が進展するたびにディテイルを加えて書き換えられるのだが、ここまでシンプルに、単純規則から心の獲得までを追った物語はなかろう。 複雑系の研究が始まってすらいない時代に、ご都合主義でなく、丹念にこれを描きえたことは、思想として驚異的だ。

『鉄腕バーディー』ゆうきまさみ

鉄腕バーディー 8 (ヤングサンデーコミックス)

鉄腕バーディー 8 (ヤングサンデーコミックス)


 約20年前、作者初の一般誌向け作品として別冊少年サンデーに連載され、未完のままだった『鉄腕バーディー』のリメイクの単行本第8巻刊行。 ただ、リメイクと言ってもドラえもんなど昭和から連綿と続く「居候モノ」のSFアクション版という仕掛け自体が斬新だった時代が終わったいま、ゆうきまさみも全く別の作品としてこれに取り組んでいるようだ。

 ゆうきまさみがこの作品をリメイクしたのは、アメリカ合衆国の主唱する世界平和に対する違和感が動機のひとつになっているだろうし、現に4,5巻では合衆国を登場させて痛烈に揶揄して見せている。 強者の論理であるダブルスタンダードは、さらに強い者が現れた瞬間に単に「滑稽なもの」でしかなくなり、崩壊するということだ。

 しかし、ゆうきまさみの作家としての誠実さを見ることができるのは、そのことよりもむしろそれ以降、この傲慢な強者の役割をバーディーの所属する連邦警察が担い始めたところである。 特殊部隊上がりの残忍なカペラが、連邦において極端な例ではあるものの決して異端ではないということが顕わになるや、バーディーの捜査姿勢こそがお人好しの夢想する平和主義、ともすると「陳腐なもの」として片づけられてしまう。 解決策を提示できない彼女は、もちろん合衆国と不戦平和主義との間で板ばさみになる日本を象徴している(ついでにいえばその後ろで身勝手な事なかれ主義を叫ぶつとむが我々日本の大衆ということになる)。

 カペラが千明から反撃を受けたことによって、テロ被害を被った合衆国と同様に専横が正当化されるとすれば、彼女はますます厳しい状況に立たされるだろう。 さらに、局面こそ違えども既に氷川は国民へ恐怖の刷り込みを行い、恐怖にもとづく民意支配までも仄めかしている。 合衆国をなぞるようなこの展開が今後の焦点になるのは間違いない。 その時バーディーがどういう選択をするのか、つとむに何ができるのか(あるいはいかに何もできないのか)が語られるはずだ。

 あくまでエンタテインメントとしてのSFマンガの枠組みを守りながら、どのようにこの問題を昇華していくことができるのか、全く予断を許さないが、このような題材に真っ向から挑んだゆうきまさみの誠意には心から敬服する。

『カンフー・ハッスル』周星馳

 物語中盤での主人公の不在については、監督業に専念したいという周星馳の事情ではないかという説がパンフレットにも書かれていた。そうなのかもしれない。

 しかしそれだけというにしては、この映画には気になる箇所が多い。作品中に、意図的と思えるほど唐突に説明を欠いた部分がいくつかあって、個人的な解釈を誘わずにいないのだ。それは、逆にそれこそがこの作品の狙い、周の映画に対する態度の表明なのではないかと思えるほどで、だからここには誤読を覚悟で個人的な解釈を書くことにした。


 「意図的と思えるほど唐突に説明を欠いた」と書いたいくつかの部分は、それぞれバラバラではあるけれども、説明の欠如によって、主人公であるはずのシンを巡る謎を深めるという点で、一貫している。だから、もし意図があるとするなら、一貫した解釈も可能なのである。

 説明の欠如とは、例えばこんなことだ。

 アパートとすら言えないボロ集合住宅の大家夫妻、楊過と小龍女は、立ち退きを迫る悪質な斧頭会から送られた刺客の襲撃に際して、自らの実力を隠し、3人の店子を見殺しにすることすら已むなしとした。かつて復讐の連鎖の中で息子を失い、その死の発端となった自らの一流の巧夫を封印すると誓ったことがその理由であるという。当然観客はそこに深い因縁を、つまり物語の伏線を想像するのだが、詳細はついに回想されることがない。

 また、インチキ教本1冊しか読んでいない割に空威張りの主人公は、傷ついた後なぜか信号機についたゴンドラ状の櫓に篭り、巧夫の奥義を用いて自らの傷を癒す。しかもシン自身には治癒の記憶がない(この櫓の中のシーンは狭く昏く、棺の中を思わせる)。

 さらに、故あって斧頭会に与したシンは、そのアジトで火雲邪神と大家夫妻とが死闘を続ける土壇場になって不意に寝返った。味方に殴られた火雲は「なぜ殴った」と問うが、シンは答えられない。

 そしてクライマックス、真の達人として復活後の主人公の放つ人が違ったような神々しさは、象徴的な如来との邂逅シーンを待つまでもなく仏のそれだが、大家は唐突に息子を思い起こし「末は医者か弁護士だ」と口にする(これはシンが子供の頃なりたかった職業でもある)。


 ここから結論されるのは、次のような物語だ。シンは豚小屋砦大家夫妻の死んだ息子の亡霊そのものか、あるいは亡き息子に憑依された人物である。それまで大家の亡き息子は、潜在人格となって表の人格(宿主)シンを維持してきた。急を要する時や怪我をした時には、気づかれないうちに表面化して(身体を乗っ取って)事態を収拾するのがきまりなのだ(そうしたシーンは前半に幾度も描かれている)。ところが、火雲との決闘という両親の危機に息子は動揺し、その動揺がシンを不意に動かしてしまう。結果としてシンは火雲に殺され、ここへきて初めて、天上界で真の如来神掌を会得してきた息子が両親の前に蘇ることになる。

 つまり、実のところ主人公はシンなるチンピラではなかった。主人公は中盤いなかったのでなく、冒頭からおらず、最終盤にのみ登場して事件を解決する。それが『カンフーハッスル』をコメディらしからぬ異様な作品にしている。

 この大家の息子の物語を、しかしこのように堂々と物語ってしまうことは、クリント・イーストウッドが『ペイルライダー』において牧師の過去(既に死んだ人間であるという事実)を幾度となく匂わせながら、ぎりぎりのところで語らないのと同様に、映画作法としてはなかなかに微妙だ。だからこそ、主人公の過去を知る証人(アイスクリーム売りフォン)は口が利けないのではないのか。

 ちなみに、『ペイルライダー』では、牧師の正体に気づいた保安官は、その瞬間に牧師と同じ場所を撃たれて死んでしまう。これは「死人に口無し」だが、フォンの場合は生きていても医学的に(作品的にも)口無しで、彼女が知っていた少年が大家の息子であったかシンであったか、また同一人物であったのかは判らないままだ。


 今回は海外資本もつき、香港人脈も大量投入して、周にとっても正念場と言える作品だったはずだ。そこでしっかりと王道のコメディやアクションを撮りながら、こういう解釈を誘う映画作法を目指すというなら、周は香港映画の系譜に収まりきらない映画監督になっていくだろう。もちろん、これは全くの個人的解釈に過ぎないけれど。

『華氏911』マイケル・ムーア

 「マイケル・ムーアは中途半端な知性だ」と、『華氏911』を観もしないで言い捨てたゴダールの真意について、あの時考えていた。

 『華氏911』の魔法は、現にかの国の内側では機能しなかった。外部から見たところでは、この映画が公開された直後、上院議員の疑惑をあげつらうレベルの低い中傷の広告や書籍や運動が生まれ、大統領自らがこれを諌め、沈静化させた時点で、魔法は消えてしまったように見えた。要はくだらない中傷合戦のひとつとしての意味を付与され、簡単に回収されてしまったのだ。ブッシュ陣営からすれば、そのふたつの間にある意味合いの違いを気にする国民が少なかったことが、この情報戦を成功させる鍵だったろう。

 このように、ブッシュをアメリカ合衆国大統領に就任させた仕組みは、いまや半数近い国民に知的判断のための必要充分な能力(識字をはじめとする教育水準のことを指す)が備わっていないという異常な事態を基盤にしている。言うまでもなく大量の≪後から来た移民≫によって引き起こされたこの事態は、本来≪先住民≫にとって災厄でしかないはずだった。膨らむ福祉・教育予算、膨らむ財政赤字、膨らむ税金負担が、上層階にいる≪先住民≫を苦しめる筈だったのだ。誰もに成功の機会があり、国籍を取得した者を等しく国民として歓迎するという合衆国の幻想的理念を遵守しようとする限りにおいては。

 逆転の発想だと思う。これを考えた≪先住民≫たちは確かに馬鹿ではない。知らざる者を徹底的に無知なままにしておくことによって、衆愚化する運命にあった大国は民主主義の政体を維持したまま貴族政治へと変質する。勿論何ら新しい発想ではないが、異常事態を機会と捉え、諸要素を正しく配置し、プランを短期間に実現させたことは驚くに値する。この4年間と今回の選挙とによってその慧眼は証明されたといってよい。

 このあとはどうなるのか。あとは、何もない。数年後、数十年後、いずれは死の恐怖に飽き、父性の幻想に飽きたアメリカ合衆国の内で起こる革命までの間、利益の追求に邁進するだけなのだ。

 ゴダールなら、このことに関して、いつ、どんな映画を撮るのだろう。いや、もっと前に撮ったのか、そうだった。ではそうだとすれば?知性や芸術が、中途半端であれ、完全であれ、程よくできたシステムの前に無力であるとすれば、ぼくらにも、アメリカ国民と同様、そこに滞留し、忠実にそれを遂行していくことで、やがてシステムを破綻に至らしめるという非歴史的な戦略しか残されてはいないのだろうか。

 13年前に「ただ不愉快だ」と言って口をつぐんだ人たちのことを思い出す。13年前、全ての発言が偽善か偽悪にしかならなかったように、ぼくらは本質的に与するところを持たず、行動すべき対象を持たない。何よりもそのことが不愉快なのかもしれない。

過去ログをあげちゃおう。

味の素スタジアムが東京スタジアムだ…

[マーケティング]エッセイだといわれた小論文
「小論文」を訳すとessayになることはわかった上でのご批評でしたが。







1.広告の環境はどう変わったか−−情報環境の変化
1−1.多メディア化が意味するところ
 2002年、BSデジタル放送が開始された。これまでにもBS、CS、CATV等の放送開始と普及によって視聴可能なチャンネルは急増している。より的確に視聴者のニーズを捉えた番組が放映されることで、受像機としてのテレビの出番は増えていってもおかしくない状況である。しかし、少なくとも統計*1によれば、NHKの地上波とBSとを足した受信契約者総数は、ここ5年ずっと微増の状態が続いている。それまでの伸びから比べると、頭打ちといってもよい。
 もちろん本来の決まりでは、テレビ受像機が地上波を受信できる状態にある限り、視聴者は前記のいずれかの契約を交わすことになっている。加えてBSやCSを受信するようになれば、外からでも目立つ位置にパラボラアンテナを立てなくてはならなくなる。必然的に、これまでNHK受信料の支払いを忌避していた世帯で、このことをきっかけに支払いを始めたというようなケースもあっただろう。にも拘らず総数が伸び悩むということは、多チャンネル化によって改めて公共放送たるNHKに支払うべき積極的価値を見出したり、ペイTVの一般化の影響で受信料支払いを当然と感じるようになったという人が、殆どいなかったのかも知れない。あるいは、恐らくそういう人はいたのだが、それとほぼ同じ数の人々が地上波に支払うのを止めているのである。これはどういうことだろうか。
 ひとつ考えられるのは、視聴者がそれぞれのチャンネルを満遍なく見ることによって、地上波の視聴に割かれる時間が著しく減少したということである。殆ど見ないのに支払うのはもったいないという理屈は、たしかにありうる。しかし、程度の差こそあるにせよ、常にNHKを見ている訳ではないというのは以前も同じだったはずだ。そこには、程度の差に起因していながら既に程度の問題ではかたづけられない、根本的なモラルの変化がある。
 これは自分が子どもだった頃のことを考えてみると判りやすい。小学生時分なら学校から帰るなりテレビに飛びついたし、中高生になるとこれにラジオの深夜番組が加わった。そして翌日学校に行けば、昨夜の番組は一番の話題だったのだ。まわし読みされるマンガ雑誌なども然りである。
 祭りや井戸端会議など、コミュニティの成員が共通の体験をすることで相互の共感を深めることを「共体験」と呼ぶが、従来のマスメディアは、選択肢が限られたがゆえに、共体験としての機能を持っていた。言い換えれば、コミュニティで他の人と円滑な関係を築くためには、ある程度知っていることが必要なメディアだった。だからこそ権威があり、支払う価値を認められていたのだとも考えられる。
 いま多くのコミュニティにおいて共体験となりうるのは、どんなメディアでも扱われるような現象や事件、時には人物である。もしくは、コミュニティの中のさらに小さなグループの中に、共体験が無数に生まれているように思われる。マスメディアは、多メディア化の結果、コミュニティにおける共体験メディアとしての機能を低下させつつあると言えないだろうか。


1−2.インターネットが生活者にもたらしたもの
 「インターネットの特徴をひとつ挙げよ」と質問されたら、何と答えるだろうか。「双方向性」、「リアルタイム」、「オープンネットワーク」、「セキュリティ問題」その他、語られる文脈によってさまざまな答えが出るに違いない。インターネットが実は単なるプラットフォームだということを考えると、これは至極当然の話だ。「音声による会話の特徴をひとつ挙げよ」と質問を変えても、先の答えはそのまま当てはまる。
 しかし、こと生活者が日常「ウェブで…」と言う場面に限って考えた場合には、「検索」という行為が注目されるだろう。目当ての情報に行き着くためには、この「検索」というステップを経てURLを見つけ出し、そのURLをクリックしてジャンプするのが常道だからだ。早ければブラウザを開いてほんの数秒で、いちばん知りたかった情報、欲しかったデータファイルを入手できる便利なツール、それがネット生活者のウェブに対する認識と言えよう。
(1)信頼の尺度
 ただ、検索の結果行き着いた情報の信頼性ということになると、話は少し複雑になる。ウェブ上では誰が、どんな意図で発した情報でも、基本的には同じ1個の情報として扱われてしまう。せっかく検索結果を見ても、その情報の真偽の程さえ定かではない。この問題をある程度解決する手段がいくつかある。ひとつは、素性の明らかな発信元のウェブサイトしか信頼しないこと。これならばほぼ安心には違いないが、しかし、ウェブ上の過半の情報を利用しないことになってしまう。そして、もうひとつの方法は、そのサイトなり情報が、他からどのように参照されているかを調べることである。
 ウェブのもうひとつの大きな特徴は「参照」である。多くのサイトには「関連リンク集」「お友達リンク」等と題したページがあって、サイトの管理者がよく訪ねたり、重宝している、気に入っているサイトがリンクされている。またサイトのメインコンテンツの中でも、個人、企業、商品、イベント等が本文でただ紹介されるだけでなく、名前や画像の部分からそれら個人や企業のサイトへリンクされている場合がある。このように他から参照されていると、その情報は何らかの点で価値があるものだということが判断できる。いくつかのオークションサイトでも、参加者の取引履歴と取引相手の評価が参照されることで、参加者相互の信頼関係を維持している。ウェブ上の情報は、参照されている数が多ければ多いほど、重要性、信頼性が高いと看做してもよさそうだ。この判断原理を利用し、検索結果を被参照ポイントの高い順に表示する方式を導入した検索エンジンが、Google(日本版サイト=www.google.co.jp/)である。ウェブ上の情報は「参照」によって互いに結び合っているが、これを「信頼性」と読みかえる訳だ。
 そうすると、素性の明らかな「安心できる」情報と、より多く参照されている「信頼できる」情報とは、どちらが重要なのだろうか。これと似たようなことが、生活者に対する意識調査の回答でもよく見受けられる。「マス広告をやっている大手メーカーだということはある程度安心材料になるけれども、記事や口コミでの情報(つまり参照)がないと機能などが本当によいのか信頼できない」というような生活者の意見は、一見アンビバレントだが、まさにウェブ情報に対する態度のオフライン(非インターネット)版にあたるのではないか。すなわち、両者は別のベクトルであり、その力は均衡していると見ることができる。
 先にマスメディアの力が低下してきたと書いたが、この事はもしかすると、生活者にとっては健全な環境をもたらしたのかも知れない。
(2)情報における自己責任と能動性
 オンライントレーディングの経験者に利用の動機や使用感を訊ねたところ、誰に聞いても必ずと言っていいほど回答に「自己責任」という単語が含まれていて、驚いたことがある。確かに、オンライントレーディングに限らずウェブ上の情報を元に何かをしようとすれば、さまざまな情報の信頼性やその軽重のつけ方、そもそもどこまで幅広く情報収集するかなど、すべて自己責任で判断することになるだろう。ネットショッピングやオークション入札の際に、「他にもっと安く買えるところはないか?」と、商品名プラス「価格」という語を含むサイトを検索するのは最早普通のことで、秋葉原で買い物をするにもまずウェブをチェックするという人も少なくない。
 ウェブは、探せば価格情報もユーザーインプレッションも、場合によってはクレーム情報も即座に見つかる世界だ。幅広く情報を収集することによって、自分にとって信頼に足る情報を選択することができる。ウェブ消費者は、一昔前であれば消費者団体にしか集まらないような詳細な情報を元に買い物をすることができ、実際にそのように買う消費者である。自分の価値尺度、自分の生活にとっての意味合いを、全てのユーザーが考え始めたと言ってよいかも知れない。
 実はここにもウェブの隠れた特徴がある。ウェブの検索では、慣れれば目指す情報に即座に辿りつくことができるが、そうなると「目指していない情報」に接触することは殆どなくなる。能動的になればなるほど求めていたものが手に入るので、ユーザーは情報に対する能動性をトレーニング(育成)されるのだ(もちろんウェブ上で偶然に受け取る情報というのはあるが、それは例えばニュースサイトのように誰かが再編集した情報であり、あるいは「2ちゃんねる(www.2ch.net/)」のような総合サイトの情報であって、これも「偶然に何か面白いものを見つけたりしないかな」という期待のもとに能動的に探し回ることにほかならない)。既存のマスメディアでも、テレビのいわゆる情報バラエティ番組や、ターゲットを細かくセグメントしたライフスタイル雑誌が好評を博していることを考え併せると、こうした情報への能動化傾向は、インターネットに限られた話ではなく、かなり社会全体に拡大しているのかも知れない。


1−3.広告主と消費者との関係
 そんな中で、メーカーが消費者と直接コミュニケーションを行なうことで強い関係を構築し、優良顧客を繋ぎとめることで長期的な収益を確保しようという動きも出ている。CRM(カスタマーリレーションシップマネジメント)である。
 ただ、アメリカ合衆国で生まれ、急速に普及したこのモデルが、その典型的な形態のまま日本のBtoC市場で同じように普及するということは、少なくともしばらくの間は、ないと考えられる。典型的なというのは、顧客に対する商品の直販(通販)を含んだ形での関係構築モデルのことだが、なぜそれがないかというと、理由は大きく分けて2つある。ひとつには価格の問題である。CRM以前に、日米では物流・流通に関する法規制の体系が異なる*2ので、BtoCのメーカーが、日本で、店頭でも売られている商品を改めて通信販売しようとすると、運送コストが目立ち障壁になってしまう。もちろん運送コスト自体に日米格差があることも一因である。自社専売の商品、例えば健康食品のような特殊なものや、既存商品のカスタマイズモデルならば、この問題はクリアされるだろう。
 また、DMをめぐる環境の違いなどから、BtoCのメーカーがCRMを導入しようとすると、立ち上げ時に顧客のIDを取得する際、非常に効率が悪くなってしまうことが往々にしてある。このあたりは、最初の購買時に顧客IDを取ることが前提の通信会社やカード会社、通販会社などのほうが有利になる。コンピュータ関連商品のようにユーザー登録が通常化しているものも同様かも知れない。
 したがって、少なくとも一般的には、そして当面は、購入の利便性の替わりに企業側からは情報提供や何らかのインセンティブという条件提示によって顧客を組織化し、インタラクティブな関係を維持しながら、商品は従来流通の店頭で販売するというかたちが主流になってくると思われる。
 ブランドの付加価値が高い商品カテゴリーや嗜好品、機能性商品などでは、顧客のモチベーションが明確であり、ブランドストーリーや効能書きなどの情報提供が顧客にとって大きな意味を持っていることから、特別なインセンティブを設定しなくてもCRMは成立させうるだろう。彼等は優良顧客になり得ると同時に、バズマーケティングバイラルマーケティングと呼ばれるような口コミマーケティングの協力者にもなり得る。
 このように見ていくと、日本で消費者を対象に普及が想像されるCRMは、米国のモデルよりはどちらかというとブランディングの色彩が強いことが判る。
 自分に合った情報に対する能動性を持った消費者と、顧客との関係を維持したい企業との、新しい関係が始まっている。



2.広告会社の未来
2−1.情報環境マネジメントという考え方
 以上、トピックとなるような現象を挙げつつ検討を加えてきたが、これらを一瞥しただけでも、今後日本の広告会社が進むべき方向性が仄見えてはいないだろうか。つまり、生活者の情報接触が受動性と能動性に二分され、そのどちらも意味を持って均衡しているなら、ブランドに関して、その両方を適正にマネジメントし、生活者に提供することが、広告会社の事業領域になっていくだろう。
 そこには例えば、CRM、ECを含めたインターネットの包括的なサービスがある。あるいはブランドの経験価値をつくる高度なライヴマーケティングがある。クライアントへのサービスであると同時に生活者の情報環境、消費環境へのサービスとなる限り、それは広告会社の仕事になり得る。
 そのサービスの蓄積は結果的に、欧米のメガエージェンシーが整えつつあるようなDASカンパニーのネットワーク(その中には、医科向けのリレーションシップ活動等のように、現在の日本では全く異業種のサービスも含まれる)へとつながるのかも知れない。しかし、重要なのはそのようにフルメニューを用意することではなく、それらが統合的に情報環境を形成することだ。かつてIMCという理念が、日本の多くのキャンペーンにおいて実施レベルでは広告表現の単なる連動に終わってしまった轍を踏むべきではない。統合というのは、部分最適を積み重ねることでも、全体が同じ動きをすることでもなく、全体最適となるゴールを理解した上で、部分が部分として最大限機能することである。


2−2.広告会社の収益に関する考察
 従来、広告会社が得てきた収益の多くは、クライアントのマーケティング部門を源泉にしている。すなわち宣伝部門、販売促進部門である。そして、受注した案件の、主にコストに対して一定の割合でコミッションを取ることで利益としてきたのである。メディアとそれ以外の製造物やイベント実施などでは取引慣習に違いがあるにせよ、この基本的構造は、メディアであれ、その他のものであれ、大きな違いはない。
 無論、近年になってここにも変化が生じている。
 ひとつは、メディアのコミッション(マージン)率が実質的に一定ではなくなったという点である。海外からセントラルメディアバイイング方式が輸入されたのが大きな原因だが、広告会社の最大の収益源であったメディアが一部の業務であれ薄利化するという事態は、今後さらに大きな課題になっていくだろう。
 もうひとつは、非メディア業務におけるフィーベースでの業務受注という形態である。制作物コストでコミッションを取る代わりに、携わったスタッフの作業量に応じてフィーを計算し、別途請求を立てる方式だ。しかし、この方式には若干問題がある。率直に言ってしまえば、これもコミッション制に比べて十分な収益を上げにくいのである。現時点では、フィーは時間単価で計算されるのが通例であるが、その単価はコンサルティング会社など異業種をモデルにしている。クライアントからしてみれば、同じ1人の人間の作業であるし、品質的にもそれほど大きな差がある訳ではないから、法外な単価は設定できない。しかし、コンサルティング会社と広告会社、それも総合広告会社とでは、ビジネスフォーマットも企業規模も異なるために、バックヤードコストに格段の開きがある。いきおい、フィーベースでの受注は、特定の業務、特定のクライアントに限定されていく。
 このほかにも、広告会社の事業領域拡大に伴う新たな収益モデルは存在する。しかし、広告会社のドメイン領域における収益の問題は早急な対応を必要とするだろう。


2−3.ゲームを変える
 2−1.で書いたように、生活者を取り囲む情報環境をマネジメントすることは、ある点では業績を変えるかもしれない。しかし、それだけでは今までにもあった事業領域の拡大と同じく、本質的な収益性の改善にはならないだろう。やはり、ゲームを変えていかなくてはならない。
 ここで「ゲーム理論の活用による戦略形成」の内容の一部を簡単にまとめる。

 ビジネスをゲーム理論で捉えた場合、各プレイヤー(企業)はゲームの5つの要素を変更することによって新たなゲームを作り出し、より大きな利益を得ることができる。5つの要素とは、ゲームに参加する他のプレイヤー(Player)、付加価値(Added value)、ルール(Rule)、戦術(Tactics)、ゲームの範囲(Scope)である。不確実性の高い状況では、プレイヤーごとに状況認識が異なることが、さらにゲームを不確実な、先の読みにくいものにしている。他のプレイヤーの不確実性に対する認識をコントロールする戦術を用いることも利益を得る上で重要である。

 これを見ると気づくことがある。我々は通常「コンペティター」として、同じ広告会社や、時に印刷会社や百貨店を想定しているが、宣伝部門や販売促進部門の支払い先はもちろんそれだけではない。殆どの消費財メーカーでは、販売促進部門が大手の小売店に対して莫大な流通対策費を支払っている。ということは、我々がゲームを変えることで、そうした流通対策費を流動化させることも不可能ではないかも知れないのである。
 暴論に聞こえるかも知れないが、それでも不可能ではないというのは、こういうことだ。先ほど触れたコンサルティング会社の経営コンサルタントは、マーケティング部門に駐在していることもままある。彼等の業務がマーケティングプラン全体の適正化であれば、当然マーケティングコストの節減も彼等のタスクのひとつである。端的に言えば、マーケティングコストを節減することによって、彼等のフィーが賄われているのである。コンサルティング会社は、クライアントとなる部署部門の発注先全てを「プレーヤー」として巻き込み、その発注コストダウンによって収益を得ることができる訳だ。ならば、「広告会社は、商品力を強化し、また顧客を取り囲む情報環境を適正化することによって、販売を効率化し、流通にかかる費用の節減を可能にする。」と言えない筈はない。


2−4.信頼の構造
 勿論、上記の実践のためには、「情報環境マネジメント」サービスを標榜できるだけの様々な領域の強化も必要であるが、何よりも前述したように「他のプレイヤーの不確実性に対する認識をコントロール」しなくてはならない。クライアントが、マーケティングマネジメントを広告会社に委託できると認識しなければ、どんなに新領域を強化しても、やはりそれは絵空事に過ぎないからだ。
 ここでもうひとつの論文「信頼の構造」から、その要旨をまとめてみる。

 社会的不確実性の存在する状況では、人はそこに起因する不利益を避けるために、特定の相手との継続的な取引関係を結び、安心(社会的不確実性に関して考慮する必要のない状態)を得ようとする。しかし、社会的不確実性と同時に機会コスト(他の相手と取引を行なっていた場合に得られたはずの利益=既存の相手と取引し続けることで失われる利益)も十分に大きいと考えられる状況では、既存の関係を脱しようとする力が生じる。この時、一般的信頼(他者一般に対する信頼)が高い者ほど多くの信頼性を備えた相手と関係を結ぶことができ、機会コストを低減する=より多くの利益を得ることが可能になる。

 繰り返しになるが、コンサルティング会社のゲームの中では、「既存の相手」が広告会社を含めた発注先である。機会コストの問題を解決する彼等のゲームの正しさが、ここでも裏書されている。さて、広告会社にとってはどうか。
 山岸のこの論文の中では、「信頼」は「安心」と区別されている。
 「安心」は上に出ているように、お互いの関係から社会的不確実性が排除される状況が生むものである。端的な例としてマフィアの子分に対する安心が挙げられている。マフィアが子分の忠誠を信じる(安心する)ことができるのは、裏切れば処刑するという脅しが効いている限りにおいてであるという訳だ。長年取引していれば、無闇に搾取されることもないだろうというのが上記の「安心」の理由なのである。
 それに対して「信頼」は、状況ではなく、対象となる相手のもつ性質に対する判断とされる。「信頼」される側の性質である「信頼性」は、取引相手として選ばれるために必要なものである。企業が「信頼性を備えている」という場合には、これまでの実績や信用情報、取引条件、そして業務能力に対する判断も(山岸は個人に対する信頼ではこの「能力に対する信頼」も区別しているが)参照されるだろう。
 では、マーケティングマネジメントを委託するに足る信頼性とは、どのようなものか。例としてはこのような条件が考えられる。
・ アバヴ・ザ・ライン業務では、より正確な市場動向予測と、それに基づくソリューションの提供を可能にする、より高いコンサルティング機能
・ ビロウ・ザ・ライン業務では、フィールドマーケティング、営業支援機能
・ 市場の不確実性に対応する戦略のシナリオ性と、コミュニケーションの効果に関して責任を負う課金メニュー
 特に三つめの課金メニューに関しては、リスクが大きく、いままで広告会社では採用してこなかった。しかし仮にマーケティングコスト全体を見ることになれば、予算都合等による提案内容の変更縮小というような妥協は生じ得なくなる。また、当然ゴール設定にも関与することになるので、取扱い領域の拡大に比して過剰なリスクかどうか、検討する価値はあるように思われる。



3.終わりに
 実際問題として、広告会社が本論のとおりに領域拡大する可能性は極めて低いだろう。
 なぜなら、このように業務を受託しようとする際には、競合広告会社との間で、最小でもブランド毎に毎回「100かゼロか」の総獲り合戦を戦うことになるからである。これは、業務を受託することによるリスクよりもさらに大きなリスクである。
 一方、そのようなリスクを排した指名による業務受託に限ってこのようなサービスを提供するとすれば、その業務割合は全事業の中では限られたものになり、過剰投資となることは免れない。
 したがって本論は「試論」の域を出ない。しかし、日本の広告会社がいまのまま何の変革も経ずして未来へと歩を進めるならば、やはりいずれ大きなリスクに直面することも疑いを容れない。新たな全体最適を目指す新たなゲームを、もう始めなくてはならないだろう。
 未来は、そこまで来ている。

≪参考資料≫
ゲーム理論を活用した戦略形成(Brandenburger & Nalebuff, 1995)』ダイヤモンド社「不確実性の経営戦略(2000)」所収
『信頼の構造−こころと社会の進化ゲーム(山岸, 1998)』東京大学出版会
『Diversified Agency Services(オムニコムグループ, 2001)』

*1:総務省情報通信統計データベース(平成12年調査)および日本放送協会平成13年度、14年度収支予算、事業計画および資金計画を参照。

*2:アメリカ合衆国のロビンソン・パットマン法は、日本とは異なり、メーカー出荷時の価格を一律に定めてきた。したがって小売の店頭では、その価格に物流コストと小売が支払う州税などが乗せられた売価で販売されている。この制度の下では、メーカーが州税の安い地域に直販の配送センターを置けば、価格競争力を持たせることは十分可能だとされる。