Es gibt keinen Besucher hier.

「ここに訪問者はいません。」

【お題】 桜ももう散ってしまいましたね。

 昨4月9日に行われて、たいへん話題になっている、件の会見について、いくつかの記事を読んでいて、辿りついた自分としての心証。
 いえね、既にTwitterに書いたのだけれど、当然140文字制限だったり、フォロワーへのレスだったりで、断片的になってしまったので、大幅な加筆とともにここにまとめようかと。



 騒ぎの当初こそ、その発見の内容と、その後の細胞作製の再現性に関する事実関係、特許問題などに興味があったものの、もはや昨日の会見など見てもいないし、すっかり興味をなくしていた。

 が、ここにきて、会見の場に立った彼女の精神的問題というか、彼女は本当に「信じている」んじゃないかという点に、にわかに関心が高まっている。


1.
 4月に入ると彼女は「S細胞は再現できると信じている」という声明を出し、その『信仰告白』によって科学者としての資質をさらに疑わしめることになった。彼女のプロジェクトが提出した論文は、仮説に関するものではなく、事実を謳ったものなのだから、この「信じている」が、仮に刑事裁判に譬えるところの「秘密の暴露」にあたるような失言ではなく、単なる言葉の綾であったとしても、彼女が自然科学という厳しい審判の場に相応しい言語を身につけていないということは明らかだった。

 ただ、一方で、彼女が出身大学の研究室でも、現在の、いまやその場を追われようとしている職場でも、将来を嘱望されてきたことは疑うべくもない。研究者として不可欠な資質に欠けている彼女がそれでも期待を集め、あまつさえ、所属団体の毀誉褒貶を大きく左右するような研究プロジェクトまで任されて論文発表に至った。十分に雄弁な事実であろう。

 これについて、彼女が『女』を使っているとかいう雑な印象批評を見かけたが、それこそ何十人、何百人と関わってきたであろう彼女の研究者としての人生に対してあまりに想像力が欠けている。発言者はそれが分子生物学会全体や自然科学者なるものに向けての侮辱でもあることを理解しているだろうか。

 それでも彼女が「かわいいから許されてきた」とするなら、それは、女性としてではなく、部下として、弟子としてかわいいからというほうが何倍も妥当だ。そしてそれゆえに、彼女は暴走と呼んでもいいような反撃を試みざるを得なかったように思われる。


2.
 精神分析でいう防衛機制に、同一化(identification)という概念がある。自分の状況を、他者の有する力や権威に近しいもの、ないしその一部として捉え、他者の状況などをそのまま自らにとっての現実と見なしてしまうことによって精神的な負荷を回避する、というような自らへの心理的操作のことだ。

 例えば、スポーツ選手やチームを応援することで、それらとの一体感を覚えるような類いの心理状態は、操作というか、むしろ普通のことのように思う。例えば「ガンダムだ、俺がガンダムだ」みたいな(違う、のかな)。

 とにもかくにも、師の影を踏まず、ただその示す道を歩んできた多くの優等生にとって、個人としての研究実績が問われることは少なからずストレスである。彼女がハーバードないし理研という組織にアイデンティティを求めても別段不思議ではない。

 そして、ハーバードや理研は、図らずもその同一化に手を貸していた。良心的で親身な指導と、経験や能力に比べれば過分であるかもしれないプロジェクトリーダーという立場を与えることによって。


3.
 問題の発覚後、野依先生らによって捏造、盗用などに関する会見が行われた際、ぼくはそれこそ印象、憶測として、利益追求に過剰適合した組織が惹き起こした問題を彼女個人の資質に帰そうとする釈明であるように感じた。ネットを検索する限り、同様の印象を持ったひとは少なくなかったらしい。そこから後、そうした印象を支持する具体的な材料は何も出てこなかったのだけれども、依然としてその流れを汲む論調は存在している。

 そして、厄介なことに、画像の捏造が認定された際の彼女の激しい不服の表明だけがその憶測を後押しした。すべての過誤は、性急に成果を求めるなかで敢えて見逃された不備であり、つまるところ組織の問題ではないかという彼女の内心が、そこからは窺えた。

 ここで、彼女がまさに心情を吐露しているとしたら。嘘をついていないとしたら。彼女の中でだけ、彼女と理研とがまったき一体の存在であり、彼女の成果や問題がそのまま同時に理研と上長と協力者の成果であり問題である場合には、それが矛盾なく成立する。

 ゆえにこそ、理研が彼女の研究を不正と認定することは、彼女にとって一体化を損ね自らを存在の危機に晒すのだ。「驚きと憤りの気持ち」は、自らのアイデンティティを分断されんとすることに対する偽らざる気持ちだった。


4.
 彼女の防衛機制はここに至って次の段階へ進む。

 ひとつは、一方で理研を激しく攻撃し、一方で引き続き理研で研究を続けたいという矛盾した発言に表れている。自らのアイデンティティと不可分の「理研」なる権威的存在を維持するため、彼女は自我を分断される代わりに「善い理研」と「悪い理研」とを分けたのである。この操作は分裂(splitting)と呼ばれる。

 もうひとつは、他者(他人や社会)が有する観念や価値観を内面化するにとどまらず、それらを自分にとっての現実に摂りこんでしまう操作、すなわち摂取(introjection)だ。

 9日の会見において発言したように、彼女はS細胞の再現が200回以上成功したと「信じ」、今後の研究のために実験の詳細な手順やデータは公開できないと「信じている」。理研も、共同研究者の誰も、いまや手順が公開できない、すべきでないなどとはまったく考えていないにもかかわらず。

 だが一方で一連の発言は、批判者の投げかける疑いや、逆に擁護の論調が寄せる期待にはそのままきれいに応えている。言うならば、他者の疑いが彼女の現実を書き換え、他者の期待が現実を書き換えているのだ。このとき既に彼女の現実は、自己と他者との境界を失いつつあるようにしか見えない。



 彼女のまわりの方々、家族、友人は、あるいは研究者は、また弁護士は、その研究内容について彼女を擁護したり批判したりする段階をもう過ぎてしまったことを理解し、別の認識をもって(より適切には、診療医を交えて)彼女の言動を見るべき、支えるべきではないのかなあ。