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味の素スタジアムが東京スタジアムだ…

[マーケティング]エッセイだといわれた小論文
「小論文」を訳すとessayになることはわかった上でのご批評でしたが。







1.広告の環境はどう変わったか−−情報環境の変化
1−1.多メディア化が意味するところ
 2002年、BSデジタル放送が開始された。これまでにもBS、CS、CATV等の放送開始と普及によって視聴可能なチャンネルは急増している。より的確に視聴者のニーズを捉えた番組が放映されることで、受像機としてのテレビの出番は増えていってもおかしくない状況である。しかし、少なくとも統計*1によれば、NHKの地上波とBSとを足した受信契約者総数は、ここ5年ずっと微増の状態が続いている。それまでの伸びから比べると、頭打ちといってもよい。
 もちろん本来の決まりでは、テレビ受像機が地上波を受信できる状態にある限り、視聴者は前記のいずれかの契約を交わすことになっている。加えてBSやCSを受信するようになれば、外からでも目立つ位置にパラボラアンテナを立てなくてはならなくなる。必然的に、これまでNHK受信料の支払いを忌避していた世帯で、このことをきっかけに支払いを始めたというようなケースもあっただろう。にも拘らず総数が伸び悩むということは、多チャンネル化によって改めて公共放送たるNHKに支払うべき積極的価値を見出したり、ペイTVの一般化の影響で受信料支払いを当然と感じるようになったという人が、殆どいなかったのかも知れない。あるいは、恐らくそういう人はいたのだが、それとほぼ同じ数の人々が地上波に支払うのを止めているのである。これはどういうことだろうか。
 ひとつ考えられるのは、視聴者がそれぞれのチャンネルを満遍なく見ることによって、地上波の視聴に割かれる時間が著しく減少したということである。殆ど見ないのに支払うのはもったいないという理屈は、たしかにありうる。しかし、程度の差こそあるにせよ、常にNHKを見ている訳ではないというのは以前も同じだったはずだ。そこには、程度の差に起因していながら既に程度の問題ではかたづけられない、根本的なモラルの変化がある。
 これは自分が子どもだった頃のことを考えてみると判りやすい。小学生時分なら学校から帰るなりテレビに飛びついたし、中高生になるとこれにラジオの深夜番組が加わった。そして翌日学校に行けば、昨夜の番組は一番の話題だったのだ。まわし読みされるマンガ雑誌なども然りである。
 祭りや井戸端会議など、コミュニティの成員が共通の体験をすることで相互の共感を深めることを「共体験」と呼ぶが、従来のマスメディアは、選択肢が限られたがゆえに、共体験としての機能を持っていた。言い換えれば、コミュニティで他の人と円滑な関係を築くためには、ある程度知っていることが必要なメディアだった。だからこそ権威があり、支払う価値を認められていたのだとも考えられる。
 いま多くのコミュニティにおいて共体験となりうるのは、どんなメディアでも扱われるような現象や事件、時には人物である。もしくは、コミュニティの中のさらに小さなグループの中に、共体験が無数に生まれているように思われる。マスメディアは、多メディア化の結果、コミュニティにおける共体験メディアとしての機能を低下させつつあると言えないだろうか。


1−2.インターネットが生活者にもたらしたもの
 「インターネットの特徴をひとつ挙げよ」と質問されたら、何と答えるだろうか。「双方向性」、「リアルタイム」、「オープンネットワーク」、「セキュリティ問題」その他、語られる文脈によってさまざまな答えが出るに違いない。インターネットが実は単なるプラットフォームだということを考えると、これは至極当然の話だ。「音声による会話の特徴をひとつ挙げよ」と質問を変えても、先の答えはそのまま当てはまる。
 しかし、こと生活者が日常「ウェブで…」と言う場面に限って考えた場合には、「検索」という行為が注目されるだろう。目当ての情報に行き着くためには、この「検索」というステップを経てURLを見つけ出し、そのURLをクリックしてジャンプするのが常道だからだ。早ければブラウザを開いてほんの数秒で、いちばん知りたかった情報、欲しかったデータファイルを入手できる便利なツール、それがネット生活者のウェブに対する認識と言えよう。
(1)信頼の尺度
 ただ、検索の結果行き着いた情報の信頼性ということになると、話は少し複雑になる。ウェブ上では誰が、どんな意図で発した情報でも、基本的には同じ1個の情報として扱われてしまう。せっかく検索結果を見ても、その情報の真偽の程さえ定かではない。この問題をある程度解決する手段がいくつかある。ひとつは、素性の明らかな発信元のウェブサイトしか信頼しないこと。これならばほぼ安心には違いないが、しかし、ウェブ上の過半の情報を利用しないことになってしまう。そして、もうひとつの方法は、そのサイトなり情報が、他からどのように参照されているかを調べることである。
 ウェブのもうひとつの大きな特徴は「参照」である。多くのサイトには「関連リンク集」「お友達リンク」等と題したページがあって、サイトの管理者がよく訪ねたり、重宝している、気に入っているサイトがリンクされている。またサイトのメインコンテンツの中でも、個人、企業、商品、イベント等が本文でただ紹介されるだけでなく、名前や画像の部分からそれら個人や企業のサイトへリンクされている場合がある。このように他から参照されていると、その情報は何らかの点で価値があるものだということが判断できる。いくつかのオークションサイトでも、参加者の取引履歴と取引相手の評価が参照されることで、参加者相互の信頼関係を維持している。ウェブ上の情報は、参照されている数が多ければ多いほど、重要性、信頼性が高いと看做してもよさそうだ。この判断原理を利用し、検索結果を被参照ポイントの高い順に表示する方式を導入した検索エンジンが、Google(日本版サイト=www.google.co.jp/)である。ウェブ上の情報は「参照」によって互いに結び合っているが、これを「信頼性」と読みかえる訳だ。
 そうすると、素性の明らかな「安心できる」情報と、より多く参照されている「信頼できる」情報とは、どちらが重要なのだろうか。これと似たようなことが、生活者に対する意識調査の回答でもよく見受けられる。「マス広告をやっている大手メーカーだということはある程度安心材料になるけれども、記事や口コミでの情報(つまり参照)がないと機能などが本当によいのか信頼できない」というような生活者の意見は、一見アンビバレントだが、まさにウェブ情報に対する態度のオフライン(非インターネット)版にあたるのではないか。すなわち、両者は別のベクトルであり、その力は均衡していると見ることができる。
 先にマスメディアの力が低下してきたと書いたが、この事はもしかすると、生活者にとっては健全な環境をもたらしたのかも知れない。
(2)情報における自己責任と能動性
 オンライントレーディングの経験者に利用の動機や使用感を訊ねたところ、誰に聞いても必ずと言っていいほど回答に「自己責任」という単語が含まれていて、驚いたことがある。確かに、オンライントレーディングに限らずウェブ上の情報を元に何かをしようとすれば、さまざまな情報の信頼性やその軽重のつけ方、そもそもどこまで幅広く情報収集するかなど、すべて自己責任で判断することになるだろう。ネットショッピングやオークション入札の際に、「他にもっと安く買えるところはないか?」と、商品名プラス「価格」という語を含むサイトを検索するのは最早普通のことで、秋葉原で買い物をするにもまずウェブをチェックするという人も少なくない。
 ウェブは、探せば価格情報もユーザーインプレッションも、場合によってはクレーム情報も即座に見つかる世界だ。幅広く情報を収集することによって、自分にとって信頼に足る情報を選択することができる。ウェブ消費者は、一昔前であれば消費者団体にしか集まらないような詳細な情報を元に買い物をすることができ、実際にそのように買う消費者である。自分の価値尺度、自分の生活にとっての意味合いを、全てのユーザーが考え始めたと言ってよいかも知れない。
 実はここにもウェブの隠れた特徴がある。ウェブの検索では、慣れれば目指す情報に即座に辿りつくことができるが、そうなると「目指していない情報」に接触することは殆どなくなる。能動的になればなるほど求めていたものが手に入るので、ユーザーは情報に対する能動性をトレーニング(育成)されるのだ(もちろんウェブ上で偶然に受け取る情報というのはあるが、それは例えばニュースサイトのように誰かが再編集した情報であり、あるいは「2ちゃんねる(www.2ch.net/)」のような総合サイトの情報であって、これも「偶然に何か面白いものを見つけたりしないかな」という期待のもとに能動的に探し回ることにほかならない)。既存のマスメディアでも、テレビのいわゆる情報バラエティ番組や、ターゲットを細かくセグメントしたライフスタイル雑誌が好評を博していることを考え併せると、こうした情報への能動化傾向は、インターネットに限られた話ではなく、かなり社会全体に拡大しているのかも知れない。


1−3.広告主と消費者との関係
 そんな中で、メーカーが消費者と直接コミュニケーションを行なうことで強い関係を構築し、優良顧客を繋ぎとめることで長期的な収益を確保しようという動きも出ている。CRM(カスタマーリレーションシップマネジメント)である。
 ただ、アメリカ合衆国で生まれ、急速に普及したこのモデルが、その典型的な形態のまま日本のBtoC市場で同じように普及するということは、少なくともしばらくの間は、ないと考えられる。典型的なというのは、顧客に対する商品の直販(通販)を含んだ形での関係構築モデルのことだが、なぜそれがないかというと、理由は大きく分けて2つある。ひとつには価格の問題である。CRM以前に、日米では物流・流通に関する法規制の体系が異なる*2ので、BtoCのメーカーが、日本で、店頭でも売られている商品を改めて通信販売しようとすると、運送コストが目立ち障壁になってしまう。もちろん運送コスト自体に日米格差があることも一因である。自社専売の商品、例えば健康食品のような特殊なものや、既存商品のカスタマイズモデルならば、この問題はクリアされるだろう。
 また、DMをめぐる環境の違いなどから、BtoCのメーカーがCRMを導入しようとすると、立ち上げ時に顧客のIDを取得する際、非常に効率が悪くなってしまうことが往々にしてある。このあたりは、最初の購買時に顧客IDを取ることが前提の通信会社やカード会社、通販会社などのほうが有利になる。コンピュータ関連商品のようにユーザー登録が通常化しているものも同様かも知れない。
 したがって、少なくとも一般的には、そして当面は、購入の利便性の替わりに企業側からは情報提供や何らかのインセンティブという条件提示によって顧客を組織化し、インタラクティブな関係を維持しながら、商品は従来流通の店頭で販売するというかたちが主流になってくると思われる。
 ブランドの付加価値が高い商品カテゴリーや嗜好品、機能性商品などでは、顧客のモチベーションが明確であり、ブランドストーリーや効能書きなどの情報提供が顧客にとって大きな意味を持っていることから、特別なインセンティブを設定しなくてもCRMは成立させうるだろう。彼等は優良顧客になり得ると同時に、バズマーケティングバイラルマーケティングと呼ばれるような口コミマーケティングの協力者にもなり得る。
 このように見ていくと、日本で消費者を対象に普及が想像されるCRMは、米国のモデルよりはどちらかというとブランディングの色彩が強いことが判る。
 自分に合った情報に対する能動性を持った消費者と、顧客との関係を維持したい企業との、新しい関係が始まっている。



2.広告会社の未来
2−1.情報環境マネジメントという考え方
 以上、トピックとなるような現象を挙げつつ検討を加えてきたが、これらを一瞥しただけでも、今後日本の広告会社が進むべき方向性が仄見えてはいないだろうか。つまり、生活者の情報接触が受動性と能動性に二分され、そのどちらも意味を持って均衡しているなら、ブランドに関して、その両方を適正にマネジメントし、生活者に提供することが、広告会社の事業領域になっていくだろう。
 そこには例えば、CRM、ECを含めたインターネットの包括的なサービスがある。あるいはブランドの経験価値をつくる高度なライヴマーケティングがある。クライアントへのサービスであると同時に生活者の情報環境、消費環境へのサービスとなる限り、それは広告会社の仕事になり得る。
 そのサービスの蓄積は結果的に、欧米のメガエージェンシーが整えつつあるようなDASカンパニーのネットワーク(その中には、医科向けのリレーションシップ活動等のように、現在の日本では全く異業種のサービスも含まれる)へとつながるのかも知れない。しかし、重要なのはそのようにフルメニューを用意することではなく、それらが統合的に情報環境を形成することだ。かつてIMCという理念が、日本の多くのキャンペーンにおいて実施レベルでは広告表現の単なる連動に終わってしまった轍を踏むべきではない。統合というのは、部分最適を積み重ねることでも、全体が同じ動きをすることでもなく、全体最適となるゴールを理解した上で、部分が部分として最大限機能することである。


2−2.広告会社の収益に関する考察
 従来、広告会社が得てきた収益の多くは、クライアントのマーケティング部門を源泉にしている。すなわち宣伝部門、販売促進部門である。そして、受注した案件の、主にコストに対して一定の割合でコミッションを取ることで利益としてきたのである。メディアとそれ以外の製造物やイベント実施などでは取引慣習に違いがあるにせよ、この基本的構造は、メディアであれ、その他のものであれ、大きな違いはない。
 無論、近年になってここにも変化が生じている。
 ひとつは、メディアのコミッション(マージン)率が実質的に一定ではなくなったという点である。海外からセントラルメディアバイイング方式が輸入されたのが大きな原因だが、広告会社の最大の収益源であったメディアが一部の業務であれ薄利化するという事態は、今後さらに大きな課題になっていくだろう。
 もうひとつは、非メディア業務におけるフィーベースでの業務受注という形態である。制作物コストでコミッションを取る代わりに、携わったスタッフの作業量に応じてフィーを計算し、別途請求を立てる方式だ。しかし、この方式には若干問題がある。率直に言ってしまえば、これもコミッション制に比べて十分な収益を上げにくいのである。現時点では、フィーは時間単価で計算されるのが通例であるが、その単価はコンサルティング会社など異業種をモデルにしている。クライアントからしてみれば、同じ1人の人間の作業であるし、品質的にもそれほど大きな差がある訳ではないから、法外な単価は設定できない。しかし、コンサルティング会社と広告会社、それも総合広告会社とでは、ビジネスフォーマットも企業規模も異なるために、バックヤードコストに格段の開きがある。いきおい、フィーベースでの受注は、特定の業務、特定のクライアントに限定されていく。
 このほかにも、広告会社の事業領域拡大に伴う新たな収益モデルは存在する。しかし、広告会社のドメイン領域における収益の問題は早急な対応を必要とするだろう。


2−3.ゲームを変える
 2−1.で書いたように、生活者を取り囲む情報環境をマネジメントすることは、ある点では業績を変えるかもしれない。しかし、それだけでは今までにもあった事業領域の拡大と同じく、本質的な収益性の改善にはならないだろう。やはり、ゲームを変えていかなくてはならない。
 ここで「ゲーム理論の活用による戦略形成」の内容の一部を簡単にまとめる。

 ビジネスをゲーム理論で捉えた場合、各プレイヤー(企業)はゲームの5つの要素を変更することによって新たなゲームを作り出し、より大きな利益を得ることができる。5つの要素とは、ゲームに参加する他のプレイヤー(Player)、付加価値(Added value)、ルール(Rule)、戦術(Tactics)、ゲームの範囲(Scope)である。不確実性の高い状況では、プレイヤーごとに状況認識が異なることが、さらにゲームを不確実な、先の読みにくいものにしている。他のプレイヤーの不確実性に対する認識をコントロールする戦術を用いることも利益を得る上で重要である。

 これを見ると気づくことがある。我々は通常「コンペティター」として、同じ広告会社や、時に印刷会社や百貨店を想定しているが、宣伝部門や販売促進部門の支払い先はもちろんそれだけではない。殆どの消費財メーカーでは、販売促進部門が大手の小売店に対して莫大な流通対策費を支払っている。ということは、我々がゲームを変えることで、そうした流通対策費を流動化させることも不可能ではないかも知れないのである。
 暴論に聞こえるかも知れないが、それでも不可能ではないというのは、こういうことだ。先ほど触れたコンサルティング会社の経営コンサルタントは、マーケティング部門に駐在していることもままある。彼等の業務がマーケティングプラン全体の適正化であれば、当然マーケティングコストの節減も彼等のタスクのひとつである。端的に言えば、マーケティングコストを節減することによって、彼等のフィーが賄われているのである。コンサルティング会社は、クライアントとなる部署部門の発注先全てを「プレーヤー」として巻き込み、その発注コストダウンによって収益を得ることができる訳だ。ならば、「広告会社は、商品力を強化し、また顧客を取り囲む情報環境を適正化することによって、販売を効率化し、流通にかかる費用の節減を可能にする。」と言えない筈はない。


2−4.信頼の構造
 勿論、上記の実践のためには、「情報環境マネジメント」サービスを標榜できるだけの様々な領域の強化も必要であるが、何よりも前述したように「他のプレイヤーの不確実性に対する認識をコントロール」しなくてはならない。クライアントが、マーケティングマネジメントを広告会社に委託できると認識しなければ、どんなに新領域を強化しても、やはりそれは絵空事に過ぎないからだ。
 ここでもうひとつの論文「信頼の構造」から、その要旨をまとめてみる。

 社会的不確実性の存在する状況では、人はそこに起因する不利益を避けるために、特定の相手との継続的な取引関係を結び、安心(社会的不確実性に関して考慮する必要のない状態)を得ようとする。しかし、社会的不確実性と同時に機会コスト(他の相手と取引を行なっていた場合に得られたはずの利益=既存の相手と取引し続けることで失われる利益)も十分に大きいと考えられる状況では、既存の関係を脱しようとする力が生じる。この時、一般的信頼(他者一般に対する信頼)が高い者ほど多くの信頼性を備えた相手と関係を結ぶことができ、機会コストを低減する=より多くの利益を得ることが可能になる。

 繰り返しになるが、コンサルティング会社のゲームの中では、「既存の相手」が広告会社を含めた発注先である。機会コストの問題を解決する彼等のゲームの正しさが、ここでも裏書されている。さて、広告会社にとってはどうか。
 山岸のこの論文の中では、「信頼」は「安心」と区別されている。
 「安心」は上に出ているように、お互いの関係から社会的不確実性が排除される状況が生むものである。端的な例としてマフィアの子分に対する安心が挙げられている。マフィアが子分の忠誠を信じる(安心する)ことができるのは、裏切れば処刑するという脅しが効いている限りにおいてであるという訳だ。長年取引していれば、無闇に搾取されることもないだろうというのが上記の「安心」の理由なのである。
 それに対して「信頼」は、状況ではなく、対象となる相手のもつ性質に対する判断とされる。「信頼」される側の性質である「信頼性」は、取引相手として選ばれるために必要なものである。企業が「信頼性を備えている」という場合には、これまでの実績や信用情報、取引条件、そして業務能力に対する判断も(山岸は個人に対する信頼ではこの「能力に対する信頼」も区別しているが)参照されるだろう。
 では、マーケティングマネジメントを委託するに足る信頼性とは、どのようなものか。例としてはこのような条件が考えられる。
・ アバヴ・ザ・ライン業務では、より正確な市場動向予測と、それに基づくソリューションの提供を可能にする、より高いコンサルティング機能
・ ビロウ・ザ・ライン業務では、フィールドマーケティング、営業支援機能
・ 市場の不確実性に対応する戦略のシナリオ性と、コミュニケーションの効果に関して責任を負う課金メニュー
 特に三つめの課金メニューに関しては、リスクが大きく、いままで広告会社では採用してこなかった。しかし仮にマーケティングコスト全体を見ることになれば、予算都合等による提案内容の変更縮小というような妥協は生じ得なくなる。また、当然ゴール設定にも関与することになるので、取扱い領域の拡大に比して過剰なリスクかどうか、検討する価値はあるように思われる。



3.終わりに
 実際問題として、広告会社が本論のとおりに領域拡大する可能性は極めて低いだろう。
 なぜなら、このように業務を受託しようとする際には、競合広告会社との間で、最小でもブランド毎に毎回「100かゼロか」の総獲り合戦を戦うことになるからである。これは、業務を受託することによるリスクよりもさらに大きなリスクである。
 一方、そのようなリスクを排した指名による業務受託に限ってこのようなサービスを提供するとすれば、その業務割合は全事業の中では限られたものになり、過剰投資となることは免れない。
 したがって本論は「試論」の域を出ない。しかし、日本の広告会社がいまのまま何の変革も経ずして未来へと歩を進めるならば、やはりいずれ大きなリスクに直面することも疑いを容れない。新たな全体最適を目指す新たなゲームを、もう始めなくてはならないだろう。
 未来は、そこまで来ている。

≪参考資料≫
ゲーム理論を活用した戦略形成(Brandenburger & Nalebuff, 1995)』ダイヤモンド社「不確実性の経営戦略(2000)」所収
『信頼の構造−こころと社会の進化ゲーム(山岸, 1998)』東京大学出版会
『Diversified Agency Services(オムニコムグループ, 2001)』

*1:総務省情報通信統計データベース(平成12年調査)および日本放送協会平成13年度、14年度収支予算、事業計画および資金計画を参照。

*2:アメリカ合衆国のロビンソン・パットマン法は、日本とは異なり、メーカー出荷時の価格を一律に定めてきた。したがって小売の店頭では、その価格に物流コストと小売が支払う州税などが乗せられた売価で販売されている。この制度の下では、メーカーが州税の安い地域に直販の配送センターを置けば、価格競争力を持たせることは十分可能だとされる。