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"BAUHAUS experience, dessau" 東京藝術大学、その他

 東京藝大で開催中の「バウハウス・デッサウ展」に行ってきた。
 というか、お招きをいただいた。同展が広報的な試みとして「ブロガー鑑賞会」なるものを開いてくださったので、それに応募して、まんまと乗っかった次第である。

 会場となる大学美術館は、藝大の門をくぐったすぐ右側にある。胸にシールを貼り、通常と少し違う経路から中に入って、地下にある最初の展示フロアに降りた。

 第一印象として、やはり歴史的文脈を踏まえた展示構成。そして、これは非常に珍しいことだそうだが、現地デッサウの所蔵品を多用することにより、バウハウスが教育機関であることが強く表れた展示になっている。

 彼等の運動にとって、芸術作品とは、「鑑賞者の感覚に影響を与えるべく設計された環境」を指しているように思われた。バウハウスにおいて、日常生活に関わるもの達が芸術の明確な対象とされ、その目指すべき到達点として建築が挙げられたことがそれを裏づけている。現代であれば、それはさらに“都市”なり“地表”といったものまでを対象にしていたかもしれない(荒川修作は、その意味でバウハウス的だとも感じた)。

 ひとつ、とても重要に感じられたのは、彼等が当時の工芸、手工業の技術的達成をベースに置くとしながら、従来の装飾的工芸の文脈、つまり歴史的に培われた文様や細工をそこから排除したことだ。彼等の作品は、素材と、形態と、色彩と、その組み合わせのバランス(コンポジション)から構成される。職人技に依存する工程を取り除くことで、量産の容易で安価な作品=製品の製作を可能にしたことはもちろんだが、ここには芸術的意図だけでは量れない問題がある。

 バウハウスが興った20世紀初頭のヨーロッパには、アール・ヌーボーなど新たな芸術運動でありながら、伝統的様式の美を重んずるものもなお盛んであった。それだけではない。美を構造として捉え、構造と美の構成要素とを合致させることを目指した表現として、バウハウス運動とアール・ヌーボーとは共通の源泉を持っている。

 にもかかわらず、なのである。

 思うに、ここには二重のユニバーサルな思想がある。

 ひとつには、前述した作品の買い手の広範さ。価格もさることながら、伝統的文様や細工は各国文化に独特なものであり、彼等の考える「万人」のためのものとは認められなかった。だから、あくまでも素材と、形態と、色彩とを用い、受け手による文脈的理解に代わって「鑑賞者の感覚に影響を与える」ものの製作を目指したのである。

 もうひとつは、製作者の問題であった。工芸ならびに芸術にあっては、本人に固有な職人的天才(と、恣意的に結ばれた徒弟関係)のみによって作品の価値が生み出され決定されること。彼等にとっておそらくそれこそが看過できない問題だった。誰でもが受けられる教育による技能的修練の結果としての芸術を、バウハウスは謳った。

 これはつまり、マルクスの敷衍である。価値の源泉を何らかの“差異”――ここでは特権的な才能やギルドの統制――に求める重商主義的な考え方に与する技能としての工芸あるいは芸術を解体し、ユニバーサルに獲得可能な技能に基づく労働の所産として、それらを生み直す活動であった。バウハウスがロシア構成主義の影響を受けたことは夙に知られているが、現在「モダンデザイン」と言われるものがここから生まれたことを考えると非常に興味深い。

 ということをつらつらと考えながら作品を見て回った。当日は特別に撮影可だったのだが、上のような考えに囚われると、それこそが特権的に思われ、意図に反するような気がしたので、最後まで躊躇していた。写真は、入口でもらったシール。かわいい。

 いろいろと考えることの多いバウハウス・デッサウ展。この日記には珍しく、まだやっています。

バウハウス・デッサウ展
【会 期】2008年4月26日(土)−7月21日(月)
【会 場】東京藝術大学大学美術館
【主 催】東京藝術大学産経新聞社
【共 催】バウハウス・デッサウ財団

(実は「ブロガー鑑賞会」には特権と同時に当然ながら義務が設けられており、つまり締切がありまして。考え込み過ぎたのか時間切れになってしまったので、あとで加筆することにして、取り敢えずアップします…悪しからず。)