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Bitches Brew / Tacoma Narrows

Bitches Brew

Bitches Brew

 ミニマルな様式で知られるローザスが初めてダンサーの即興を作品に採り入れた作品、と一般に言われた本作では、果たして本来の意味における即興を観ることなど一秒たりともなかった。アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが注意深く行ったのは、複数の単純な運動の複合による現実世界の複雑な運動現象の再現、というべきものである。これまでフィボナッチ数列やポリリズム的な周期性などの数学的タームをダンスに導入することで新たな群舞の提示に取り組んできた彼女にとって、複雑系、あるいはカオスはごく必然的な「次の一手」であって、例外的な試みなどではなかった筈なのだ。

 まる1年も経ってどうしてそんなことを書くのか。そもそもなぜタコマ橋崩壊事故の記録映像が使われ、あまつさえタイトルにまで使われたかに言及するネットの感想文が当時ひとつたりとも見当たらなかったことが、大いにぼくを当惑させたから、ということになる。実は専門誌のレビューやパブリシティに異口同音に書かれていて、穏当過ぎる理解だったのかもしれないけれど。
 1940年に建造されたタコマ橋がわずか8ヶ月で崩落したこの事故は、想定されたいくつかの影響(通行、横風など)に起因して橋自体に自励的な振動が発生し、さらにそれらが干渉しあうことで、それぞれの振動エネルギーを足して得られる総和を超え、橋の耐久限界をも超えるねじれが発生したことが原因であり、のちにカオス研究が創始される要因ともなった。ここで重要なのは、発端となった個々の影響自体は予め想定されていたという点である筈だ。そうでなければ研究チームによって橋の崩落が映像で記録されることもなかったのだから。

 つまりアンヌ・テレサにとっては、ダンサー個々の動きを想定の範囲内に収めることが重要であり、にも拘らずこれも想定されたダンサー間の呼応のルールによって、あたかもクラブのフロアに見られるような複雑で突発的な人の離合集散がシミュレートされうるということが本来の眼目なのである。
 この公演をそのように見る観客が少ないこと、それこそが彼女の試みの成功を示しているのかもしれないが、こうまで完璧だと気の毒ですらある。

 仮に、日本の観客もそのような試みに気づいており、しかしそのような実験の域を越えて生々しく表現されたフロアの情景にこそ感銘を受けたのだとしよう。たしかに、いつも幾何学的とも言える整然とした群舞を得意とするローザスのダンサー達がルーズな空間に舞い、視線を合わせて動きをシンクロさせる(つまり一見普通のアンサンブル)姿は、それだけで新鮮ではあった。
 しかし、物語の鑑賞をダンスに期待してしまう向きには、ローザスはそもそもつかみ所のないカンパニーだった筈だ。今回アンヌ・テレサが本当に変節を経たというのであれば、今後さらに大鉈を振るわねばならないことは明らかで、これまでの顧客を切り捨てる覚悟を必要とするだろう。むしろそのような誤解を与えるべく膨大な試行錯誤を繰り返して辿り着いたであろうダンサー各々の振り付け―単振動と相互影響のルール―と透徹した客観的視線こそが鑑賞されるべきところだった。

 繰り返しになるが、アンヌ・テレサは現実世界の複雑な現象が見たとおりではないことを、あくまで自分のスタイルに則って示したのだとぼくは思うし、それによって「つい物語を読み取ってしまう」人間の認識の方法を問うたのだと思っている。

『地上最大のロボット』手塚治虫

鉄腕アトム(13) (手塚治虫漫画全集 (233))

鉄腕アトム(13) (手塚治虫漫画全集 (233))


 『PLUTO』が世に出て、原案となった『地上最大のロボット』も単行本附録になるなど再び耳目を集めている。 ただ、その読まれ方は、「この話と真正面から取り組んで浦沢はここまでの肉付けに成功した」というもので、浦沢抜きに読むことが難しくなっていることは否めない。 浦沢が物語るのはあくまでも浦沢自身の物語であって、そこには浦沢の土俵があるだけなのだ。 だからいま、純粋にこの手塚の作品を読み直して感じることを書いておきたい。

 鉄腕アトムの多くのエピソードの中でも『地上最大のロボット』は、読者から当然のように「心」を持つと信じられてきたアトムでなく、善悪を知らない高性能ロボットがいかにそれを身につけ「人」として成長し、「人」として死にうるかを描いている。 
 つまり、ロボット三原則のように単純な規則からも「心」は生まれうる、「心」とはそのようなものであると。 

 まず、高性能ロボットがロボット三原則を運用する時に、併せて人間社会の善悪判断を学習していくというシステム設計は効率側面から至極当然であること。 そして、人間社会の善悪判断を学習をするためには周囲からの毀誉褒貶に敏感に反応する判断装置が必要であること。 この作品ではプルートウもアトムも繰り返し毀誉褒貶に晒され、それぞれに大きなショックを受けている。 ウランからワッペンをもらうプルートウ、人間から「化けもの」と陰口を囁かれるアトム、ひとつひとつの場面が読む人間の「心」を鋭く突き刺し、その瞬間自分の内部で起こったと同じ現象がロボットの回路にも発生していることが痛いほど解る。 

 この主題は息が長く、石森章太郎人造人間キカイダー』によって再び奏でられ、少女マンガの清水玲子『メタルと花嫁』、近年では神山健司『攻殻機動隊stand alone complex』等でも変奏された。 恐らくは工業化、電子化が進展するたびにディテイルを加えて書き換えられるのだが、ここまでシンプルに、単純規則から心の獲得までを追った物語はなかろう。 複雑系の研究が始まってすらいない時代に、ご都合主義でなく、丹念にこれを描きえたことは、思想として驚異的だ。

『鉄腕バーディー』ゆうきまさみ

鉄腕バーディー 8 (ヤングサンデーコミックス)

鉄腕バーディー 8 (ヤングサンデーコミックス)


 約20年前、作者初の一般誌向け作品として別冊少年サンデーに連載され、未完のままだった『鉄腕バーディー』のリメイクの単行本第8巻刊行。 ただ、リメイクと言ってもドラえもんなど昭和から連綿と続く「居候モノ」のSFアクション版という仕掛け自体が斬新だった時代が終わったいま、ゆうきまさみも全く別の作品としてこれに取り組んでいるようだ。

 ゆうきまさみがこの作品をリメイクしたのは、アメリカ合衆国の主唱する世界平和に対する違和感が動機のひとつになっているだろうし、現に4,5巻では合衆国を登場させて痛烈に揶揄して見せている。 強者の論理であるダブルスタンダードは、さらに強い者が現れた瞬間に単に「滑稽なもの」でしかなくなり、崩壊するということだ。

 しかし、ゆうきまさみの作家としての誠実さを見ることができるのは、そのことよりもむしろそれ以降、この傲慢な強者の役割をバーディーの所属する連邦警察が担い始めたところである。 特殊部隊上がりの残忍なカペラが、連邦において極端な例ではあるものの決して異端ではないということが顕わになるや、バーディーの捜査姿勢こそがお人好しの夢想する平和主義、ともすると「陳腐なもの」として片づけられてしまう。 解決策を提示できない彼女は、もちろん合衆国と不戦平和主義との間で板ばさみになる日本を象徴している(ついでにいえばその後ろで身勝手な事なかれ主義を叫ぶつとむが我々日本の大衆ということになる)。

 カペラが千明から反撃を受けたことによって、テロ被害を被った合衆国と同様に専横が正当化されるとすれば、彼女はますます厳しい状況に立たされるだろう。 さらに、局面こそ違えども既に氷川は国民へ恐怖の刷り込みを行い、恐怖にもとづく民意支配までも仄めかしている。 合衆国をなぞるようなこの展開が今後の焦点になるのは間違いない。 その時バーディーがどういう選択をするのか、つとむに何ができるのか(あるいはいかに何もできないのか)が語られるはずだ。

 あくまでエンタテインメントとしてのSFマンガの枠組みを守りながら、どのようにこの問題を昇華していくことができるのか、全く予断を許さないが、このような題材に真っ向から挑んだゆうきまさみの誠意には心から敬服する。

『カンフー・ハッスル』周星馳

 物語中盤での主人公の不在については、監督業に専念したいという周星馳の事情ではないかという説がパンフレットにも書かれていた。そうなのかもしれない。

 しかしそれだけというにしては、この映画には気になる箇所が多い。作品中に、意図的と思えるほど唐突に説明を欠いた部分がいくつかあって、個人的な解釈を誘わずにいないのだ。それは、逆にそれこそがこの作品の狙い、周の映画に対する態度の表明なのではないかと思えるほどで、だからここには誤読を覚悟で個人的な解釈を書くことにした。


 「意図的と思えるほど唐突に説明を欠いた」と書いたいくつかの部分は、それぞれバラバラではあるけれども、説明の欠如によって、主人公であるはずのシンを巡る謎を深めるという点で、一貫している。だから、もし意図があるとするなら、一貫した解釈も可能なのである。

 説明の欠如とは、例えばこんなことだ。

 アパートとすら言えないボロ集合住宅の大家夫妻、楊過と小龍女は、立ち退きを迫る悪質な斧頭会から送られた刺客の襲撃に際して、自らの実力を隠し、3人の店子を見殺しにすることすら已むなしとした。かつて復讐の連鎖の中で息子を失い、その死の発端となった自らの一流の巧夫を封印すると誓ったことがその理由であるという。当然観客はそこに深い因縁を、つまり物語の伏線を想像するのだが、詳細はついに回想されることがない。

 また、インチキ教本1冊しか読んでいない割に空威張りの主人公は、傷ついた後なぜか信号機についたゴンドラ状の櫓に篭り、巧夫の奥義を用いて自らの傷を癒す。しかもシン自身には治癒の記憶がない(この櫓の中のシーンは狭く昏く、棺の中を思わせる)。

 さらに、故あって斧頭会に与したシンは、そのアジトで火雲邪神と大家夫妻とが死闘を続ける土壇場になって不意に寝返った。味方に殴られた火雲は「なぜ殴った」と問うが、シンは答えられない。

 そしてクライマックス、真の達人として復活後の主人公の放つ人が違ったような神々しさは、象徴的な如来との邂逅シーンを待つまでもなく仏のそれだが、大家は唐突に息子を思い起こし「末は医者か弁護士だ」と口にする(これはシンが子供の頃なりたかった職業でもある)。


 ここから結論されるのは、次のような物語だ。シンは豚小屋砦大家夫妻の死んだ息子の亡霊そのものか、あるいは亡き息子に憑依された人物である。それまで大家の亡き息子は、潜在人格となって表の人格(宿主)シンを維持してきた。急を要する時や怪我をした時には、気づかれないうちに表面化して(身体を乗っ取って)事態を収拾するのがきまりなのだ(そうしたシーンは前半に幾度も描かれている)。ところが、火雲との決闘という両親の危機に息子は動揺し、その動揺がシンを不意に動かしてしまう。結果としてシンは火雲に殺され、ここへきて初めて、天上界で真の如来神掌を会得してきた息子が両親の前に蘇ることになる。

 つまり、実のところ主人公はシンなるチンピラではなかった。主人公は中盤いなかったのでなく、冒頭からおらず、最終盤にのみ登場して事件を解決する。それが『カンフーハッスル』をコメディらしからぬ異様な作品にしている。

 この大家の息子の物語を、しかしこのように堂々と物語ってしまうことは、クリント・イーストウッドが『ペイルライダー』において牧師の過去(既に死んだ人間であるという事実)を幾度となく匂わせながら、ぎりぎりのところで語らないのと同様に、映画作法としてはなかなかに微妙だ。だからこそ、主人公の過去を知る証人(アイスクリーム売りフォン)は口が利けないのではないのか。

 ちなみに、『ペイルライダー』では、牧師の正体に気づいた保安官は、その瞬間に牧師と同じ場所を撃たれて死んでしまう。これは「死人に口無し」だが、フォンの場合は生きていても医学的に(作品的にも)口無しで、彼女が知っていた少年が大家の息子であったかシンであったか、また同一人物であったのかは判らないままだ。


 今回は海外資本もつき、香港人脈も大量投入して、周にとっても正念場と言える作品だったはずだ。そこでしっかりと王道のコメディやアクションを撮りながら、こういう解釈を誘う映画作法を目指すというなら、周は香港映画の系譜に収まりきらない映画監督になっていくだろう。もちろん、これは全くの個人的解釈に過ぎないけれど。

『華氏911』マイケル・ムーア

 「マイケル・ムーアは中途半端な知性だ」と、『華氏911』を観もしないで言い捨てたゴダールの真意について、あの時考えていた。

 『華氏911』の魔法は、現にかの国の内側では機能しなかった。外部から見たところでは、この映画が公開された直後、上院議員の疑惑をあげつらうレベルの低い中傷の広告や書籍や運動が生まれ、大統領自らがこれを諌め、沈静化させた時点で、魔法は消えてしまったように見えた。要はくだらない中傷合戦のひとつとしての意味を付与され、簡単に回収されてしまったのだ。ブッシュ陣営からすれば、そのふたつの間にある意味合いの違いを気にする国民が少なかったことが、この情報戦を成功させる鍵だったろう。

 このように、ブッシュをアメリカ合衆国大統領に就任させた仕組みは、いまや半数近い国民に知的判断のための必要充分な能力(識字をはじめとする教育水準のことを指す)が備わっていないという異常な事態を基盤にしている。言うまでもなく大量の≪後から来た移民≫によって引き起こされたこの事態は、本来≪先住民≫にとって災厄でしかないはずだった。膨らむ福祉・教育予算、膨らむ財政赤字、膨らむ税金負担が、上層階にいる≪先住民≫を苦しめる筈だったのだ。誰もに成功の機会があり、国籍を取得した者を等しく国民として歓迎するという合衆国の幻想的理念を遵守しようとする限りにおいては。

 逆転の発想だと思う。これを考えた≪先住民≫たちは確かに馬鹿ではない。知らざる者を徹底的に無知なままにしておくことによって、衆愚化する運命にあった大国は民主主義の政体を維持したまま貴族政治へと変質する。勿論何ら新しい発想ではないが、異常事態を機会と捉え、諸要素を正しく配置し、プランを短期間に実現させたことは驚くに値する。この4年間と今回の選挙とによってその慧眼は証明されたといってよい。

 このあとはどうなるのか。あとは、何もない。数年後、数十年後、いずれは死の恐怖に飽き、父性の幻想に飽きたアメリカ合衆国の内で起こる革命までの間、利益の追求に邁進するだけなのだ。

 ゴダールなら、このことに関して、いつ、どんな映画を撮るのだろう。いや、もっと前に撮ったのか、そうだった。ではそうだとすれば?知性や芸術が、中途半端であれ、完全であれ、程よくできたシステムの前に無力であるとすれば、ぼくらにも、アメリカ国民と同様、そこに滞留し、忠実にそれを遂行していくことで、やがてシステムを破綻に至らしめるという非歴史的な戦略しか残されてはいないのだろうか。

 13年前に「ただ不愉快だ」と言って口をつぐんだ人たちのことを思い出す。13年前、全ての発言が偽善か偽悪にしかならなかったように、ぼくらは本質的に与するところを持たず、行動すべき対象を持たない。何よりもそのことが不愉快なのかもしれない。